30 10月, 2011

悪魔の嵐

スティーブン・キングの小説をドラマにした「悪魔の嵐」を久しぶりに見た。
〜ある日、小さな島に猛吹雪の嵐とともに悪魔がやってくる。悪魔は老女を殺し、外見は普通の男である悪魔は簡単に逮捕されるが、留置所の檻の中からも人を操り殺人を続ける。そして、どの殺人(もしくは自殺)現場にも「望みのものを手渡せば、立ち去ろう」というメッセージが必ず添えられる。その望みのもの、というのは、島の幼い8人の子供の中の一人であった。島民が望みを聞き入れなければ、子供を全員殺すと悪魔は言う。悪魔は後継者を捜しに来たのであった。
そして、悪魔に差し出す子供を決めるためのくじ引きが始まった…。その結末は?そして、数年後の島民たちは…?〜

悪魔のコワいところは、悪魔自身が何かするというより、「人にさせる」というところかもしれない。
島民は悪魔に追いつめられ話し合う。「選ばれた子供は殺されるわけじゃない。長生きさえする。でも、子供を差し出さなければ全員殺されるんだ。」と誰かが意見し、皆が同意する。子供を持つ主人公の保安官だけがひとり反対する。「絶対に誰も子供を渡してはいけない、悪魔に魂を売るな!」と…。

もしも私たちの街に悪魔が来て同じ事を要求したら、私ならどうするのだろう…。悪魔は本当に子供を全員殺すだろうか…。一人を犠牲することは正しいのだろうか…。

悪魔に力があるのなら、神隠しのごとくさらっていけばいいのに、悪魔はそうはしない。何故か…。
悪魔は人間を恐怖に陥れることはできても、人間との取引がないと実際は何も得られないのではないか…。悪魔は最初から悪魔として存在したのではなく、もともとは人間、もしくは人間の醜い部分の集合体かもしれない。悪魔に力を与えているのは、被害者たる人間の方かもしれないのだ。

このドラマを見ながら、ふと原発問題を重ねた。原発を受け入れて一時的な経済効果を享受するのか、それとも拒否して失業問題に根本から立ち向かうか。悪魔は人の弱い部分につけこんで甘い蜜を目の前にちらつかせる。悪魔がくれた蜜はいつまでも甘くはない。いつしかニガヨモギのように苦味を帯びてくるだろう。そしてその苦味は口から消えず、何ももらわない方がまだマシだった、と思う時が来るかもしれない。