03 9月, 2011

台風に思う

illustrated by obarie
父が畑仕事に行っているところは、父が生まれ育った今は無人の実家です。
玉島川という古事記にも出てくる川のすぐそば10メートル足らずのところに100年くらい建ってる家です。今は、川もだいぶ様変わりしましたが、私が小さかったころは、ハヤや鮎がたくさん泳いでいて、祖父が投げ網で川魚を獲ってたのを覚えています。川の岩場には川蟹(モズク蟹。通称ツガニ。渡り蟹くらいの大きさ)が居て、父は割り箸の先にスルメをくくりつけたものを岩場の下に差し込んで、蟹をとっていました。とった蟹は生きたまま研いだ米に入れて、塩と醤油と酒だけで味付けしてにんじんとごぼうをその他の具に、蟹ご飯を炊いていました。私の生涯の中で一番ご馳走の炊き込みご飯です。川蟹は身(肉)の味が濃く、それを食べ慣れると、海の蟹の肉は大味に感じます。蟹味噌も海のものより、川蟹の方が濃厚です。そんな川蟹も水害で岩場が減ったりして昔ほど獲れなくなりました。
ホタルもよく飛んでいたので、その餌であるカワニナもたくさんいて、茹でて食べてました。夏休みのちょっとしたおやつでした。(小学生の私はカワニナがホタルの餌だと知りませんでした。)今は、ホタルも見えませんが…。
そんな自然の恵みでいっぱいの川も、台風などによる集中豪雨に遭うと表情を変えます。100年の間に何度か床上浸水して、そのたびに家が少し動くのでしょう、家の柱はどれもかなり傾いてます。
調べてみたら、最後の床上浸水は1983年。玉島川は83年までの100年の間に5回の水害を起こしていました。平均して20年に一回は水害に遭っているので、平均でいえばまたそろそろ来るのかしら、という感じです。水害がなければ、畑もみかんの木もあり、春はたけのこ、実のなる木は他にもビワ、柿、カリン、梅など自然の恵みいっぱいの場所です。
でも、もし父が居なくなった後、床上浸水の被害に遭ったら、畑の後始末やら、家屋の修理などは保険金が多少出たとしても、私のなけなしの金ではどうにもできないだろうと父は考えていて、最近は父が生きてる間に土地と家屋を処分することを考えてるようです。私も、お金のやりくりができるのであれば、土地と家屋を引き継いでいきたいのですが、もし次の水害に遭って家が住めない状態になったら、と思うと、やりくりしていく自信はありません。土地を売るにしてもサラ地にしなければならないので、サラ地にするのに300万くらいかかります。ど田舎で買い物にも不便なところで、水害の可能性もあるとなると、サラ地にした費用300万でも売れないでしょう。
災害に遭うとは大変なことです。自給自足の生活にちょっとあこがれていましたが、自然とまともに向き合う生活はあこがれだけではできないかもしれません。祖父も曽祖父も、そこしか住むところがなかったから、度重なる浸水で家が傾いても住み続けたのでしょう。
そこで生まれ育ったり、そこしか住むところがなければ、被害に遭っても住めなくなるまで人は住み続けるのだと、わかるようになったのは最近のことです。私も、次の水害が来るまでは畑をやりながら住んでみようかしら、という思いもあるからです。もしかしたら生きてる間に来ないかもしれないし…。
今、まさに北上している台風12号で被害に遭った人たちの苦労が少しでも軽くなるよう祈ります。明日はわが身、かもしれません。災害国である日本は遥か昔から、災害にあっては、また再出発する、という営みを延々と続けてきたのです。すごいことです。
3.11の被害で、生まれ育った土地を離れざるを得ない人たちは、物質としての家だけではない、たくさんの思い出も手放すことになると思うと、胸がつぶれそうです。

放射能に汚染されなければ、元の土地に戻ってゼロから始める人も多いでしょう。そんな時支えになるのは、その場所にまつわる多くの思い出と仲間でしょう。でも、汚染された今、思い出いっぱいの土地に戻ることもできず、仲間もバラバラ。
それでも、尚生きていかなければならない。わが身に置き換えたら…、思考が停止してしまいそうです。
自分たちが国を動かしていると思い込んでいる政治家や経済界の人たちに願うことは、「自然災害を避けることができない国なのだから、せめて再生可能な自然を残す」、ということを最低限の条件で政治活動、及び経済活動をして欲しい、ってことです。