29 3月, 2012

おもしろそうな会社

NHKのニュース9を見ていたら、ある会社の紹介をしていた。この不況にあって前年比15パーセント増の伸びを見せたという農業機械の会社・筑水キャニコム。「ものづくりは演歌。義理と人情をお届けします。」が企業理念。農作業に携わる人たちの意見やぼやきまでも積極的に取り入れ、たったひとりのお客様のためにでも製品を作りたい、と社長は語る。

その製品たちのネーミングがまたオモシロい。乗用タイプの”草刈り機まさお”、発電機付き運搬機”いつ伝どこ伝~伝導よしみ~”、草刈り機”ブッシュカッター・ジョージ”など、遊び心(てゆーかダジャレ?)満載で楽しい。http://www.canycom.jp/naming/
キャニコムUSAもあるので、そちらでもブッシュカッター・ジョージという名前で販売してるのかと思ったら、さすがに問題があるのか、ただの製品番号で販売していた。ちなみに、ヒラリーという立ち乗り運搬車もあるが、そのネーミングもアメリカでは使われていない。http://canycomsales.com/

外国人留学生を積極的に雇用し、彼らの母国やその近隣諸国への進出も図っている。こういう会社を見ると、元気が出る。

27 3月, 2012

線香

父は耳が悪くて、テレビの音は23~5くらいの大きさで聞いている。私は17くらいで聞いているので父の聴覚は相当悪いと思うのだが、そんな父は私よりも逆に嗅覚がいい。
家に仏壇が引っ越してきてから毎日一度は線香を焚くわけだが、父の実家から仏壇と一緒に持ってきた線香がとても臭く感じるらしく、「こりゃ、臭か~。俺は寝られん。」と、仏壇の部屋で寝ている父は文句タラタラ。

住職オススメ、京都の老舗の品。
美しいパッケージなのに、香りは
カレーのような…。
その後菩提寺の住職と話をしたとき、「臭いの少ない線香はないでしょうか?」と訊いたら、「それなら、これを試してみてください。ちょっとお高いですけど。」と言って、30数本しか入ってないのに1000円もする京都の老舗のものらしい、いかにも上等なパッケージの線香を薦められた。父はそれを買って帰宅後早速仏壇に線香を上げたら、「ええーっ!?これ、臭いじゃん。住職の鼻、どがんかしとらんとー?(どうにかなっているのではないか?)」という臭いだった。寺は広いから、広い面積に広がったときはいい香りなのかもしれないが…。箱には”白檀を贅沢に使用した、甘く涼やかな木の香り”とある。私がコピーを書くならば、”あなたをインドにいざなう、部屋でカレーを調理したような香辛料の香り”だろうか。臭覚に個人差があるとはいえ、少なくとも木の香りはしない。父は即座にその線香をしまいこみ、「なんか、良か線香はなかかな…。寝られんぞ、寝られん…。」とブツブツ。

翌日、福岡三越に勤める従姉妹の家に遊びに行ったら、たまたま「売り場に線香のサンプルが来たとやけど、試してみる?」と言って、数種類の線香を焚いてくれた。加賀(金沢)の線香だった。ほほ~、どれも上品でよい香り。”緑茶””ブルーローズ””シトラス&アイリス”など微煙香のものを選んで持ち帰り、父にも嗅がせてブルーローズに決定し、早速、従姉妹に取り寄せてもらった。
どれも仏壇という用途にこだわらず、どこでも使えそうなおだやかな香り。一件落着。
●香屋(金沢) http://www.ko-ya.net/

24 3月, 2012

バスの楽しみ

~旅の思い出・トルコ編~
気分がふさいだとき、私にとってのささやかな気分転換のひとつは、旅の日記をや写真を見たり、次に行きたい旅の計画をたてること。旅のテレビを見るのもいいな。
最近、NHKだったかローカルバスでめぐる旅の番組を見た。バスはいいです。仕事には新幹線や飛行機がいいのでしょうが、旅には地元の人との距離が近いバスがいいです。

日本でも、いつも使う路線以外は使い勝手がわかりにくいバスですが、海外でもわかりにくい。長距離バス以外だと、まず表示がその国の母国語しかないことも多いので、どこで切符を買えばいいか、どのバスに乗ればいいかわかりにくい。特に海外は鉄道駅や長距離バスターミナルから市街地までタクシーやバスで移動しなければならない観光地が多いので、どうしても地元の人に聞いてまわる必要が出てくる。
その点、トルコは心強い。まず長距離バスターミナルでもガイドブックなどを見て切符売り場を探していると、たいてい誰かが声をかけてくれる。切符が買いたい、切符、切符、と言うと、切符売り場まで連れていってくれる。で、どのバス?、と聞いたら、バスまで連れて行ってくれたこともある。

以前、トルコで女3人今風に言うところの女子旅をしたときのこと、長距離バスに乗り込んで出発まであと10分というとき、一人がトイレに行きたい、と言ってあわててバスを降りた。彼女がトイレの表示を探そうとキョロキョロしたとき、そこらへんにいたおじさんたち4~5人が一斉に同じ方角を指差した。彼女は彼らが指差すほうに迷わず走って行った。
ツーカーとはこういうことをいうのではないか、というくらいの絶妙のタイミングで、バスの中からその様子を見ていた私たちは大笑いした。

二度目のトルコで妹と行ったときは、市内を回るミニミニバス・ドルムシュに初めて乗った。座席が十人分くらいしかないバンで、最初に運転手にお金を払う。でも、私たちの後から乗ってくる人を見たら、まず座席に座ってから、前に座っている人にお金を渡しているじゃありませんか。そのお金が、次々に手渡しで運転手のところまで行って、おつりがある場合はまた前から手渡しで次々におつりが戻ってくるという仕組みだった。私もその一員となって、お金を前や後ろの人に手渡して、ささやかな一体感を味わった。私たちは見るからに観光客なので、最初に運転手に告げた目的地に着いたら、誰かが「ここだよ」と教えてくれた。ドルムシュは楽しい。(コンヤという街でしか乗ってないので、どこも同じではないかもしれないけど。)

最初は晩秋、二度目は真冬にトルコに行った。長距離バスでアナトリアの大地を走っていたとき、車窓から広い大地にたくさんのある樹木の林(というかな?)を見た。後日、その木は杏(アンズ)の木だったことがわかった。日本では春に桜の花が咲くように、トルコでは杏の花が咲くのだ。あの時裸だったあの枝に杏の花が広い面積で咲くのだと思うと、見たくてたまらない。今度トルコに行くなら4月、と決めている。
参考写真:https://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GFRC_jaJP412JP423&q=%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%80%80%E6%9D%8F%E3%81%AE%E8%8A%B1&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&ei=HcpqT47zHOzjmAWwvpWQBg&biw=1069&bih=709&sei=IspqT-LWPOWhmQXQmdSeBg

22 3月, 2012

母とケンカ

私の母は、認知症が少し入っているけれど、他人と話をするときは妙にしっかり受け答えするので、家族の私たちも、一瞬回復したのかと思ってしまう。昨日のことを忘れていることもあれば、細かいところまで覚えていることもある。
ただ、妹がネットなどで調べてみると、母はやはり認知症の特徴を兼ね備えているらしい。いろんなことを面倒くさがる、怠惰になる、ボーっとテレビを見る、表情が乏しくなる、食い意地が張ってくる、直近の記憶に弱い、などの母の状態は認知症にみられるものらしい。それに婦人科系、泌尿器科系の問題と高血圧、脳梗塞、水頭症をかかえているので、厄介だ。歩くのもままならない。
そんな母の体の回復(または維持)のためを思って言う(注意)することが、母には気に入らないらしく、先週末は機嫌を損ねて、2日半も口をきかなかった。昔からそうだった。怒ると怒鳴ったり自分の気持ちを一切言わず、ただだまるのだ。私はケンカは言い合いするほうが好き(?)なので、だまられるのがいちばんこたえる。
知り合いにアルツハイマー症のご主人のお世話をされている人がいるけれど、お話をうかがったら「言うこときかなくて、主人を平手打ちしたこともあるのよ。」と、いつもほがらかで穏やかなお人柄からは想像もできない言葉が返ってきた。
母親を施設に入所させているという友人は「認知症になった今も、私の罪悪感を刺激する当てこすりをしてくるよ。」と言っていた。みんな何かしら抱えている。

ただだまりこくる母親に言いたいことはいっぱいあったけど、そんな母のそばにずっと居る父の方がもっとつらいのだと思いなおし、母のことはいったん頭のすみに追いやって父のサポートに徹するのだと自分に言い聞かせた。母がつらいのもわかっているのだが…。

子育てと違って、だんだん悪くなっていく、しかも何年続くか先の見えない介護というものを明るく切り抜ける方法はないものか。
紙パンツの中の自分の排泄物をわしづかみにしようとする母親(本人は片付けたい一心なのだ)を制しながら、その重くなった紙パンツを両手に抱えて、この状況をポジティブ思考に切り替えるにはどーすりゃいいの?と思ったものです。

16 3月, 2012

ごぼう茶

母のからだのむくみがひどい。私も母の遺伝子を受け継いで、体調が悪いとむくみやすい体質。ごぼう茶がむくみ取りを始め、様々な症状にいいと聞いたので、早速ごぼうを買ってきて作ってみた。
まず、ごぼうをささがきにして、水にはさらしたりせず、そのままざるや新聞紙に広げて天日で干す。1~2日くらいでカラカラになったら、油を引かないフライパンでカラ煎りして、煙が出る前に火を止める。ひとつまみを急須に入れてお湯を注いで飲みます。煮出してもいいそうなので、夏は多めに煮出しておいて飲むといいでしょう。
香ばしいごぼうの香りはするけれど、食品としてもごぼう大好きなので、お茶として美味しく飲める。ごぼうの香りが苦手な人はほうじ茶などをブレンドしたらいいと思う。ごぼう茶のだしがらも食べられる。私は野菜炒めや、カレーなどに入れている。チャーハンやサラダのトッピングにも合うと思う。



その昔、ごぼうは薬草として日本に入ってきたのだそうだ。
そんなごぼうの効能はこちら。
http://takutaku.eco.to/daieto/ocya/k-gobou.html

13 3月, 2012

悪魔と名前~映画「ザ・ライト」~

なぜだか自分でもわからないけど、悪魔祓いとかキリスト教を扱った映画にとても興味がある。以前、霊能者に「中世あたりのヨーロッパで修道女をしていた過去世がありますね」、と言われた。スタンドカラーや黒っぽい服が好きなのはその名残らしい。その服を買い求めた店のオーナーとはその服を買ってから親しくなったのだけど、その霊能者いわく、私と彼女はその過去生で修道女仲間だったそうだ。彼女は一年中、黒い服を着ている。



部屋は物を作る材料やら資料やらがいっぱいで、片づけが苦手でものが捨てられない私は、修道女だったときの反動的生活をしているのだろうか。
そんなシスター・オーバリーが、興味津々で見た映画「ザ・ライト」のご紹介。見たいなー、と思っていたら、深夜の映画専門チャンネルでやっていた。

幼い頃に経験した母の死の記憶が、信仰への疑問の原因となっている主人公の青年が、悪魔祓いのエキスパートの神父と出会って、自分の進むべき道を見出していく、という物語。
バチカンを中心とするクリスチャンの世界では今も悪魔祓いが実際に行われている。昔、大ヒットした「エクソシスト」も実話をベースにした映画なのだ。悪魔の正体はどうあれ、悪魔というものはクリスチャンの世界では正式に存在するらしい。バチカンに悪魔祓いの学校があることは、今回この映画で初めて知った。
この映画も実話に基づく映画であり、映画的なコワさはあまりない(真実としては怖いが)。まじめに(?)悪魔祓いをえがいた映画、ってとこか…。
興味深かったのが、神父が悪魔祓いをするときに、執拗に悪魔の名前を問いただすところだ。悪魔は決して名前を言わない。悪魔というものは巧みに隠れる。つまり憑依する。神父は悪魔が人にとりついていることはわかっていても、名前を聞き出さないと、追い出せないらしい。ということは名前を聞き出さない限り、隠れ続けることができる、ということか…。
名前というものは、いろんな意味でそこに狙いを定めるためのロック機能を持っているようだ。自分の名前を言ったり、ひとの名前を呼んだりすることは、思った以上に聖なることなのかもしれない。
だから名前の響きや画数にこだわったり、姓名判断を気にしたり、というのは必然なのだろう。

蛇足ではあるけれど、神社でお参りするときには、まず自分の住所氏名年齢を述べるのが正式な参り方だと聞いてからというもの、私は必ず名を名乗るようにしている。名前言わないと、神様は区別がつかないの~?と最初は思ったけれど、この映画を見て、名前を言うことで神様と自分の間に筋道のようなものが通るのではないかと改めて思った次第。

この映画では名優アンソニー・ホプキンスが、またいつもの迫真の演技を見せてくれるが、もう一人、ルトガー・ハウワーが主人公の青年の父親役で抑えた渋い演技を見せてくれる。ルトガー・ハウワーはハリソン・フォード主演の「ブレードランナー」で、人間に戦いを挑むレプリカント役を演じて一躍有名になった俳優で、私は一時期とってもファンでござった。いい感じにお年を召して、ファンとしては嬉しい限り。

12 3月, 2012

ばふれちゃん

ばふれちゃんとは、母が、父の女友達を総称してつけた呼び名。ばばフレンドの略。
父は老人会の役員などを長年やっていたり、公民館で踊り(演歌や民謡に合わせて踊るレベルの)を教えている(サークル的なノリだと思う)ので、70歳以上のおばさまたちの知り合いが多い。
4年くらい前に、母が3ヶ月くらい入院したときから、近所のばふれちゃんたちが家でひとり暮らす父のために夕食の差し入れを持ってきてくれるようになった。父はきっと「家ん中んこつは、オレがぜーんぶしよっとさー。」とでもふれて回っているのか、母が退院してからも現在まで、その風習(?)は続いている。実際、母はテレビの前でボーっと座っているだけ(だからボケた?)で、家事を一切やらない。
父に差し入れしてくれるばふれちゃんは何人いるのか訊いたら、「5~6人かな…。」と言っていた。
さすがに最近は頻度は減ったものの、私が実家にいる2~3週間の間でも数回いただく。同時ではないけれど、数人から差し入れが来るので、どの容器が誰の容器かわからなくなり、返そうにも返せず、台所に容器がたまっている。年末に来てくれたばふれちゃんは、「容器だけもろうて帰ってよか?」と言って、玄関先で待っててくれた。みなさん父の不精さを学習したのか、最近は、返却しなくていいようなやつに惣菜を入れてきてくれるようになった。不在の間に玄関先に置いてあることもある。名前が書いてないので、誰だかわからないことも…。
父も普段からばふれちゃんたちにサービスしてるらしい。畑を無償で貸したり、4人くらいを車に乗せて花を見に行ったり、みかんや野菜をおすそ分けしたり…。
今年のゴールデンウィーク直後には、ばふれちゃんたちと温泉に行くらしい。男は父ひとりである。女性陣はご主人に先立たれた人たちだと思うけど、我が父ながら、すごいな。「おまえ、ゴールデンウィークの頃は帰ってくるや?ばふれちゃんたちと温泉行くとばってん…。」と言う。母をひとりにできないので、その予定に合わせて帰ることにした。

ばふれちゃんたちのおかげで、父も老老介護のストレスを発散できるのだろう。私や妹も、ばふれちゃんたちには感謝している。
ついさっきは、昆布巻きが玄関先に置いてあった。今夜のおかずが一品増えた。ありがたや。
いつまでも父と遊んでやってくださいませ~。

11 3月, 2012

私の3・11

地震から一周年の追悼式をテレビで見て、黙祷した。新聞の見開きに掲載されていた、震災で亡くなった家族へのメッセージを泣きながら読んだ。

すべての日本人にそれぞれの3・11があることだろう。1年たって、地震の日を思い出してみて、地震のあと停電していたのかどうかさえ、記憶があやふやになっている。そのとき使っていた携帯は、買い換えたのでメールなどは今読めず、当時の記憶を呼び起こす手助けにならない。また1年後にはさらに記憶が薄れるだろうから、個人的な覚え書きとして、今のうちに3・11はどうしていたかを書いておこう…。

震災当時は東京に居て、自宅で仕事をしていた。大きな揺れがきて、そのユッサユッサと揺れる感じがいつもと違うな、と思い、いつもより長いぞ、と思ったとき、天井まである本棚がゆっくり倒れてきた。すぐそばにいたので、とっさに本棚の前に立って両腕で支えたけれど、本がこちら側にも、壁側にも落ちて、もとに戻せなくなり、あきらめて本棚を支えるのをやめて、倒れるがままにした。相変わらず揺れているので怖くて、玄関から外に出たかったけど、倒れた本棚と本の海にはばまれて、その部屋から玄関には出れず、台所側ににまわってそこから玄関へ逃げた。
外に出ても、まだ地面が揺れていて気持ち悪かった。どの程度、家から離れればいいのかとまどう。薄手のセーターだけだったので、上着をとりに室内に戻るべきかどうか迷っているうちに、少し揺れが収まったので、室内に戻った。が、余震が来るたびに外に出た。地震直後から、夫や妹や友達の携帯に電話したけど誰ともつながらない。どれだけの被害なのかもわからない。何度目の余震のときだったか忘れたけれど、九州の実家に電話してみたら通じた。うちではテレビが見れなかったので、電話に出た父に、テレビをつけて被害状況を見てくれ、と頼んだ。受話器を持ったまま父はテレビをつけ、そのときテレビに映し出された映像に津波が映っていたらしく、「ああっ!!津波の来よる!津波が、津波が…ああ…。」と電話の向こうで絶句していた。電話が通じたのはその1回で、その後はつながらなくなった。夕方近くだったか、都内から南町田の自宅に歩いて帰宅してるという友達から電話が来た。どの道を通って帰ればいいか地図を見て欲しい、という電話だった。
夕方遅くに仕事の打ち合わせで都内に出る予定だった。国立駅に出てみたけれど、中央線は動いていない。相手方に電話しても通じない。メールも通じない。その時点では、まだ被害状況はわからなかった。駅前の公衆電話やバス停の前には大勢の人が並んでいた。
駅前のスタバに入って電車が動くのを待っていたけど、ほどなくお店の人が7時くらいに早仕舞いしますと告げて回っていた。今日は電車は動かないようです、みたいなことを話していた。

夜になって、やっと妹や夫と連絡がとれた。妹は神奈川県の鶴見から、都内の荻窪までバスと徒歩を組み合わせて10時間くらいかけて帰り着いたらしかった。
夫は、電車が動かないため帰れず、夫がいた場所から一番近い彼の友人宅に泊まった。私は近くに住む友人と夕方連絡とれて、夜友人宅に行って一緒に夕食をとりながらテレビを見て、初めて被害状況を知り、テレビを見て真夜中まで過ごした。テレビには暗闇の中で赤々と燃える家々が画面に映し出されていた。

翌日、茨城に住む叔母と連絡がとれた。台所は食器がたくさん割れて大変だったらしい。断水してるという。その後も断水はしばらく続き、自転車で小学校のグラウンドに来ている給水車まで水をとりにいかなければいけない、とこぼしていた。70~80歳の車のない叔母夫婦にとって、水汲みは大変そうだった。

2日後に、もともと実家に帰るつもりで予約していたバスで九州に帰った。電車の運転が制限され、ホームへの入場も制限されていたたために駅がすごく混雑してる様子を新宿で初めて目の当たりにして驚いた。あんな長蛇の列は生まれて初めて見た。

10 3月, 2012

インド文化祭~「魅せられて、インド」~

チラシの写真は藤原新也。大学生のときに
出会った藤原氏の本「全東洋街道」は衝撃
で、その本を通して旅に憧れた。
母がデイサービスに行ってる間に久々の息抜き。福岡アジア美術館で明日11日まで開催中の展覧会”魅せられて、インド”を見に出かけた。父が「今日は一日遊んでこい」と言って駅まで車で送ってくれた。

インドに行くと、”何でもアリ”の世界を垣間見る。天国も地獄も、神も悪霊も、超金持ちも超貧民も、善人も悪人も、美しいものもきたないものも、喜びも苦しみも、崇高さも卑しさもぜーんぶ(包み隠さず)ある、って感じ。
それらの中から、美しいものと楽しいものを持ってきて展示した感のある「魅せられて、インド」は、見ごたえある展覧会だった。
インドを描いた日本画家・横山大観をはじめ平山郁夫、秋野不矩(余談ですが秋野不矩美術館は絶品!)、畠中光亨、横尾忠則など日本を代表する画家たちの作品、インドの民俗画や細密画、布のコレクターで有名な岩立広子の美しい布の数々、インド映画の楽しみを描いた画家グレゴリ青山の楽しいマンガの原画から、インドでフィールドワークした学者の植物細密画、インド本の元祖的存在である妹尾河童の本「河童が覗いたインド」の原画(昔から見てみたかった!)、その他アーティストたちの作品と、またそれら出展者たちのちょっとチープなインドのものコレクション・紙袋、ラベル、ガネーシャ像、おもちゃ、映画パンフレット、などなど、文字通りインドに魅せられた大人たちの文化祭的なノリで、とても楽しかった。福岡アジア美術館ではボランティアも募集している。もしも、東京を離れて九州にずっと住むようなことになれば、美術館ボランティアもいいなー、と思った。

福岡アジア美術館はアクセスも便利。福岡空港から延びる地下鉄の中洲川端駅に直結するビルの7~8階。夜8時まで開館してるのが、また嬉しい。

09 3月, 2012

春の味

父の畑の周囲にツクシがいっせいに頭を出した。小学校から中学校にかけて、春休みになるとよくツクシを摘んでいた。摘むことが楽しくて、摘むだけ摘んで、ハカマ(つくしの胴体にくっついてるギザギザのもの)をむくのは、すぐに飽きて大人たちにまかせていた。今回も、父と母がせっせとハカマをむいてくれた。
ツクシとスギナは同じ地下茎から出てくる。つくしが終わるころ、スギナがいっせいに姿を現す。このスギナが畑に入り込むと、なかなかやっかいらしく、父はこのスギナ(つまりツクシも)がたくさん出てくる畑の脇に除草剤をまいたらしい。
私がツクシを摘んでいると「お~い、そこは除草剤まいたとこやけん、そこんツクシは食べられんぞ」と、背後から父の声がした。そこで摘んだツクシは捨てて、除草剤をまいてない場所に移動して仕切りなおし。
しかし、ふと思った。”除草剤をまいたはずのところにツクシがびっしりはえてるってことは、除草剤は効いてない?”
そこには普通の雑草は確かにあまりはえていなかった。つくし(すぎな)の生命力はとても強いんだなー。スギナは薬草としても優れている。美白効果や傷の治療、利尿作用促進など、いろいろ。民間療法の世界では万病にいいらしく、癌に効く、とも言われている。カルシウムを多く含み、ほうれん草の150倍と書いてあるサイトもある。
ドイツでも昔から薬草として使われていた。
参考:http://olive510.blog.fc2.com/blog-entry-54.html

ツクシは、ハカマをむいて下茹でした後、だし汁に醤油とみりんとわずかの塩を入れたものでツクシを煮て、煮立ったところに溶き卵を入れて卵とじにしていただいた。ツクシの頭にかすかな苦みというか香りというか味わいがあって、おいちい。また摘みに行くです。

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ツクシを摘むなら、頭が開ききってないものを摘んだほうが美味しい。頭には胞子がいっぱいつまっていて、頭が開くと胞子が飛んでいく仕組み。

06 3月, 2012

トシエちゃんの梅

やっと六分咲きくらいかな。今年の梅の開花は
全国的に遅い。
祖母が亡くなり、無人となった父の実家の畑の隣には、小さな梅林がある。
父の昔からの知り合い、トシエちゃんの梅林。南高梅だ。
トシエちゃんは毎年梅の木に農薬をかけているけれど、そのときオオバ家の夏みかんの木にもついでに農薬をかけてくれている。父は、そのお礼として「夏みかんば、好きなだけとっていってよかよ。」とトシエちゃんに言ってるらしい。
去年、たまたまトシエちゃんが梅の木の手入れをしてる時に出会ったら、「夏みかん、美味しかったよ~。こっちの道路側んとがいちばん甘うして美味しかった~。」と、父よりも夏みかんの状態を把握していた。
そして、「うちの梅の実も、好きなだけとっていってよかよ~。うちんとは知り合いにやるくらいで売り物じゃないけん。」と、トシエちゃん。私は心の中で「ヤッター!!」と歓喜の声をあげた。
そのときいただいたいかにも南高梅らしいおおぶりの梅は、梅ジュースにしたら、父も母も「こりゃ、ウマか。」と言って、あっと言う間になくなった。
去年はもう梅の実の終わりかけに頂いたので数が少なく、梅酒用のビンひとつ分だったけど、今年は早めに好きなだけいただこうと今から舌なめずりしているところ。トシエちゃんも夏みかんを好きなだけ、どーぞ。

05 3月, 2012

生き残る、ということ

こんな記事があったよ、と友達が教えてくれた。とても心に響いた。被災した彫刻家の記事だった。何度も読み返した。 http://fukushima-net.com/sites/content/178

この記事を読んでいると、すべてを破壊されても再生の道はあるのだと感じる。
記事の中の”創造的な行為を持った人はしぶとく生き残ったという。”という一文に、心が反応した。私は被災者でもないし、この文章が表現するところの捕虜でもないけれど、今の自分にこの言葉は大きな励みとして響いてきた。
一昨年から去年にかけて、精神的にかなり不安定なときがあったけれど、アクセサリーを作ったり、何かを描いてるときは、なにかしら安らぎのようなものを感じていたことに気がついた。

災害に限らず人間は、何かを失う瞬間というのが必ず来る。でも、何もかも失っても、ボロボロに傷ついても、人間は何もないところから、また何かを生み出すことができる、ということを今日改めて確信した。そして、ものを創ることだけは絶対にやめるまい、と思った。