09 12月, 2011

映画「ヴィヨンの妻」

あまり家にも帰らず、浮気を繰り返し、生活費もろくに家に入れず、子どもが病気になっても医者に連れて行く金もない、遂には飲み屋の金を盗んでしまう。そんな夫が当代きっての人気作家だとしても、普通は早々と見限ってしまいそうだが、松たか子演じる妻佐知は浅野忠信演じる夫大谷を見限らない。それどころか、夫が盗んだ金を、飲み屋で働いて返そうというのだから恐れ入る。

女と金と酒、ときたらドロドロした修羅場がつきものだけど、松たか子や浅野忠信の質感によるものなのか、監督のまなざしによるものなのか、この映画「ヴィヨンの妻」にはホンワカとしたぬくもりがある。不思議な映画だった…。
太宰治の同名の原作を読んでいないので映画だけの感想になるけれど、私が持っている太宰の退廃的な暗いイメージとは異なる印象を受けた。

切ればスッキリしそうなのに切ることができない男女の縁。死にたいと言いながら、いざ死にかかるとジタバタして生き残る男。好きでいながら保身のために見捨てた女を忘れられずにいる男。そんな煮え切らない生き様を見せる登場人物たちに、なにか親しみを感じるのは年をとったからかしらん?それにしても、この映画の中の女性は妻も愛人も潔(いさぎよ)い。男達の方が女々しくさえあるのだ。

葬式というものは、一族の愛憎が見え隠れすることが多い。祖母の葬儀が終わっても、すっきりとは割り切れない家族の縁などについて考えさせられているとき、深夜の映画専門チャンネルで見た「ヴィヨンの妻」になんとなく癒された。
世の中、すっきりと割り切れることよりも、割り切れないことの方が多いんじゃなかろうか。大抵は、割り切れないながらも、どこかで折り合いをつけて”良しとする”ことで歩いていくのだろう。
太宰治という人は、その”折り合い”をつけることができない人だったのかもしれない。

学生のとき「斜陽」を読んで、太宰ファンにはなれないと思い、それ以外の太宰の作品は読んだことがないけれど、この映画を見て、今一度太宰を読んでみたいと思った。