11 3月, 2012

私の3・11

地震から一周年の追悼式をテレビで見て、黙祷した。新聞の見開きに掲載されていた、震災で亡くなった家族へのメッセージを泣きながら読んだ。

すべての日本人にそれぞれの3・11があることだろう。1年たって、地震の日を思い出してみて、地震のあと停電していたのかどうかさえ、記憶があやふやになっている。そのとき使っていた携帯は、買い換えたのでメールなどは今読めず、当時の記憶を呼び起こす手助けにならない。また1年後にはさらに記憶が薄れるだろうから、個人的な覚え書きとして、今のうちに3・11はどうしていたかを書いておこう…。

震災当時は東京に居て、自宅で仕事をしていた。大きな揺れがきて、そのユッサユッサと揺れる感じがいつもと違うな、と思い、いつもより長いぞ、と思ったとき、天井まである本棚がゆっくり倒れてきた。すぐそばにいたので、とっさに本棚の前に立って両腕で支えたけれど、本がこちら側にも、壁側にも落ちて、もとに戻せなくなり、あきらめて本棚を支えるのをやめて、倒れるがままにした。相変わらず揺れているので怖くて、玄関から外に出たかったけど、倒れた本棚と本の海にはばまれて、その部屋から玄関には出れず、台所側ににまわってそこから玄関へ逃げた。
外に出ても、まだ地面が揺れていて気持ち悪かった。どの程度、家から離れればいいのかとまどう。薄手のセーターだけだったので、上着をとりに室内に戻るべきかどうか迷っているうちに、少し揺れが収まったので、室内に戻った。が、余震が来るたびに外に出た。地震直後から、夫や妹や友達の携帯に電話したけど誰ともつながらない。どれだけの被害なのかもわからない。何度目の余震のときだったか忘れたけれど、九州の実家に電話してみたら通じた。うちではテレビが見れなかったので、電話に出た父に、テレビをつけて被害状況を見てくれ、と頼んだ。受話器を持ったまま父はテレビをつけ、そのときテレビに映し出された映像に津波が映っていたらしく、「ああっ!!津波の来よる!津波が、津波が…ああ…。」と電話の向こうで絶句していた。電話が通じたのはその1回で、その後はつながらなくなった。夕方近くだったか、都内から南町田の自宅に歩いて帰宅してるという友達から電話が来た。どの道を通って帰ればいいか地図を見て欲しい、という電話だった。
夕方遅くに仕事の打ち合わせで都内に出る予定だった。国立駅に出てみたけれど、中央線は動いていない。相手方に電話しても通じない。メールも通じない。その時点では、まだ被害状況はわからなかった。駅前の公衆電話やバス停の前には大勢の人が並んでいた。
駅前のスタバに入って電車が動くのを待っていたけど、ほどなくお店の人が7時くらいに早仕舞いしますと告げて回っていた。今日は電車は動かないようです、みたいなことを話していた。

夜になって、やっと妹や夫と連絡がとれた。妹は神奈川県の鶴見から、都内の荻窪までバスと徒歩を組み合わせて10時間くらいかけて帰り着いたらしかった。
夫は、電車が動かないため帰れず、夫がいた場所から一番近い彼の友人宅に泊まった。私は近くに住む友人と夕方連絡とれて、夜友人宅に行って一緒に夕食をとりながらテレビを見て、初めて被害状況を知り、テレビを見て真夜中まで過ごした。テレビには暗闇の中で赤々と燃える家々が画面に映し出されていた。

翌日、茨城に住む叔母と連絡がとれた。台所は食器がたくさん割れて大変だったらしい。断水してるという。その後も断水はしばらく続き、自転車で小学校のグラウンドに来ている給水車まで水をとりにいかなければいけない、とこぼしていた。70~80歳の車のない叔母夫婦にとって、水汲みは大変そうだった。

2日後に、もともと実家に帰るつもりで予約していたバスで九州に帰った。電車の運転が制限され、ホームへの入場も制限されていたたために駅がすごく混雑してる様子を新宿で初めて目の当たりにして驚いた。あんな長蛇の列は生まれて初めて見た。